9.30.2009

9.27 デモ映像

■自営業・フリーランスの労働組合:インディ・ユニオンの『いんでぃTV』で、09.27 宮下公園ナイキ化反対デモ@渋谷の様子が早速報じられています。前エントリーで紹介した“地下ラジオ”だけでなく、『いんでぃTV』も注視すべきメディア。ナイキ宮下公園問題は、大資本メディアがロクに報じない、実に由々しき、忌まわしき、嘆かわしき問題だ。この件に不案内な人は特に、是非この映像を観てもらいたいと思います。


それから・・・《sweat shop/sweatshop》という言葉は、みんなに気持ちのいい汗をかいてもらうための製品を作るメイカーや、それを売るブティックのことではない。
その“実体”を知りたい人はこのサイトを。


面白いラジオ(秋のラジオ考)

■日本のラジオでもたまに面白い番組はあるが、《面白いラジオ局》というものは存在しない。断言する。

オレの理想のラジオ・ステイションというものは、

・一日中、ずっと流しっぱなしにいていられる。
・好きな音楽が頻繁に流れる。
・(それより遥かに重要なことだが)不快な音楽がほぼ流れない。
・“すなわち”/そして、政治的なカラーがはっきりしている。
・パーソナリティーの発言で、ニヤリと笑わせる。
・討論番組(最低でも30分)では、参加者の発言でスカッとしたり、ドキッとしたりできる。
・知的な連中が、真剣に毒のあるギャグを考えている。
・政権に、警察権力にきちんと《ファック・ユー》が言える。
・要するに、番組単位ではなく、局としてのポリシーがあり、放送内容の自由を脅かす暴力に対しては徹底的に(聴取者を巻き込んで)闘う。何故ならばそれはリスナーの自由に対する侵害でもあるからである。

という感じのものだが・・・ラジオなんてそもそも海賊局でいい。というか、むしろその方がいい。しかし、マンションの郵便受けにちょっと政治的なビラを投函するだけで捕まる国で、好き勝手に電波を長期的に飛ばすのはそらぁ、夢のまた夢だ。

だからオレは毎日、パリのラジオ・ノヴァ Radio Nova をインターネット経由で聴いている。もとは海賊放送局だったが社会党のフランソワ・ミッテラン政権で正規の放送局として認可されてから30年弱、ビジネス的にデカくなって大企業やつまらん企業のCMも流れるようになったが、局の基本的なスタンスはさほど変わっていない。朝7時から、報道コーナー(フラッシュ・ニュース)はギャグとアイロニーにまみれて頻繁に“別地点”に着地するし、一日のウォーミング・アップがサルコジーを嘲弄することだったりする。

(ラジオ・ノヴァはサルコが昔から最も嫌うラジオ局の1つだ・・・以前この放送局が『nova MAGAZINE』という月刊誌も発行していた頃、当時内務大臣だったサルコジー(当然右派)が示した大麻吸引に対する不寛容な方針を受けて、2003年2月号のカナビス特集号でこんな表紙で抵抗したのがクールだった↓)。

(ついてる見出しはちょっとしたダブル・ミーニングで、サルコのために巻いてるんじゃねえよ/サルコなんかシカト、って感じのニュアンス)

で、その Radio Nova は音楽がいい。ロックもソウルもファンクもジャズもレゲエもテクノもハウスもラテンもアフリカ音楽も映画音楽も何もかも、きちんと一定のテイスト内に収まっている。確固たる選曲ポリシーのある放送局を聴き続けるというのは、音楽を聴き分ける耳を養う訓練になる。例えば、どこかで新しい曲を聴いたときに、“ノヴァはこの曲をプレイするだろうか?”という基準でその曲を自分の中に位置づけることができるようになる。あるいはノヴァの放送中に、自分の感覚からするとノヴァらしからぬ曲に思われるものが流れたときには、“ノヴァは何故これを選曲したのか?”という点を考えながら聴くことを強いられる。これこそが、“いちラジオ・ステイションの示す音楽に対する批評性”というものであり、それが元となって、送り手と受け手との間の、音楽を介した緊張感のあるコミュニケイションが生まれるのだ――実際にノヴァのウェブ・サイト上のストリーミング・プレイヤーでは、〈この曲好き(J'aime)〉〈好きじゃない(J'aime pas)〉〈かけ過ぎ、飽きた(Trop entendu)〉という3つの中からリスナーが今流れている曲に対して意思表示できるようになっているし、結局、それでも納得いかない選曲が多ければ自然とリスナーはその局を離れていくわけだ。

で、そのラジオ・ノヴァが、昨日、10年振りくらい(?)にウェブ・サイト Novaplanet を全面リニューアルした。日本でも実はファンの少なくない nova だが、フランス語が分からないとサイトのどこをクリックすれば放送が聴けるのかさえ分かりにくかったものが、今度は《NOVA PLAYER/PLAY》という表示になった。あと知っておくと便利なのは、《C'était quoi ce titre?》というところをクリックすると、過去に流れた曲の一覧が別ウィンドウで開くことくらいだ。ちなみに、これを書いてるたった今の時点でのリストはこれだ。nova が今日、朝っぱらから何を流しているのかが分かる。


ラジオ放送というのは国の許認可事業であり、日本の総務省はおいそれと新しいラジオ局の開局認可などしないから、いつまでたっても、どの局も大差ない何局かが大概において眠たい番組を垂れ流し続けている。が、例えばパリ市の場合、その面積は東京のJR山手線の内側程度なのに、そこに約50ものFM局が存在している。だから各局は独自のカラーを打ち出し、よってこんな選曲の局もあり得るわけだが、今後こういう性格のFM局が日本にもできる可能性について考えると・・・どうも気分が鬱々としてきてしまう。この国のお上は実によく分かっているのだ、電波を自由にさせるのは“危険”なことだと。海賊局あるいは好き勝手に独自のカラーを打ち出すラジオ局なんかが“はびこる”ことは、この国に本物の民主主義が生まれる萌芽になってしまうのだということを。


しかし、どっこい、この日本の地下にも注目すべき新しいネット・ラジオのメディアはできてきているし、地道に支持者を増やしているプログラムもある。
その中から新しい情報と、それから今週注目している放送を紹介しておく。日本のメディアだから、紹介するのに nova のようには多くを語らない。興味のある人は、それがどんなものか、クリックして自分の耳で確かめられたし。

VOA - Voice of Antifa ・・・随時聴取可能。現時点で聴けるのは第1回のパイロット放送。


★今週日曜日のネットラジオ素人の乱「RLLのかくめい生活研究所」・・・10/04 22:00~

今週は、モダーンなストリート・ファイティング・(ウー)マン必読の新刊『ストリートの思想』(NHKブックス)を上梓した社会学者の毛利嘉孝さんがゲスト。番組の詳細はこちら



追記:Radio Nova は、サイトのリニューアル後、おそらく物凄いアクセスが殺到しているのでしょう、なかなかストリーミングできない。ここ最近、こんな状況はなかったのだが・・・。トライしてダメだった人は、時間をおいてまた行ってみてください。

9.27.2009

9.27 緊急デモ


■宮下公園ナイキ化反対、野宿者排除阻止、緊急デモ
http://minnanokouenn.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html 

日時  9月27日(日)13時集合
集合場所  代々木公園A地区渋谷門

9.21.2009

ギル・スコット=ヘロン新作!

■は、いよいよ、本当に出るらしい! 本人が「出す」と言ってもなかなか出ない人だから話半分以下で聞いていたが、噂は、今度こそ本当だった。15年振り(!)の新作だ! みんな、朗報だ!! と・・・興奮して書いてるが、もう日本のメディアもどっか報じているのかな? とにかくニュー・アルバムのニュースを聞いて、こんなに緊張するのも久しぶり。緊張するよね、GSHの新録だよ、だって。

彼の噂はここ何年もロクに伝わってこなかったし、聞こえてきても、いい話ではなかった。オレが生のGSHの素晴らしい歌声にウルウルきたのは、2001年7月、パリの老舗ジャズ・クラブ《ニュー・モーニング》でだった。その日のステイジでも確かちょっと本人が話していたと記憶するけど、そのときのギル・スコット=ヘロンは、コカイン所持で逮捕されたあと、裁判所の命令で強制的にリハビリ・センターに入れられるはずだったのに、本人がそれを無視したせいで、このあとアメリカに戻ったらそのかどで再逮捕、執行猶予も取り消されて収監確実、かなんか(ちょっとうろ覚えなんで微妙に違ってるかもしれないが)そんな感じのデリケイトな時期だった。



とはいえ、本人はまるでケロッとしてるし、パフォーマンスに衰えもなく、全くもって感動的なショウだった(マジでいいショウで、その後その日の模様がフランスのテレヴィM6でも放送され、DVDも出たくらいだ/写真上)のだが、帰国後、ニュー・ヨークでやっぱり逮捕されて実刑をくらい、出たり入ったり、それだけならまだしも、彼はこれまでの歌の内容や行状からしても全然ポリス、検察に好かれるタイプの人じゃないんで、その後も当局から結構不当な扱いを受けてきた(と、スコット=ヘロンに好意的な立場の欧米のメディアが、その後、そんなことをしばしば伝えていた)。

で、今年7月には久しぶりにヨーロッパでツアーをやるっていうんで、そこにいられないのが残念だなと思っていたら、バルセロナ公演も、その後のコニャックとパリ(8年振りの《ニュー・モーニング》)での公演も直前に中止になった。

フランスの報道によると、結局その後もなんだかんだあって、裁判が今までこじれてきた結果、司法によってGSHの出国許可が直前になって取り下げられてしまったらしい。バンドのメンバーは先にバルセロナにみんな入っていて、スコット=ヘロンも完全に行く気になっていた(公演直前にフランスのメディア『Télérama』のインタヴューも受けていた)んだから、まるでその“嫌がらせ”は寝耳に水だったようだ。GSHの弁護士が裁判所に対して猛烈に抗議をしているという記事もどこかで読んだが、そんな風にまたもやゴタゴタしつつも、とにかく本人は新作を本気で“仕上げ”ている、というのが今の様子らしい。



そのタイトルは『I'm New Here』。出口は XL Recordings。上述『Télérama』のインタヴューでは「オレ自身はそんなに新しくないけどね、アルバムは新しい」とジョークを飛ばしながら、発売は9月か10月と語っていたのだが、あっという間に(またもや)その発売予告もジョークになってしまい、現時点では《来年の早い時期》になってしまっている。が、そう記したティーザー・サイトがインターネット上にアップされているのだから、出るのは確実で、ひと安心。そいつを5回位繰り返して観ながら(新曲の断片が4曲くらい聴ける)ウィスキーで祝杯を上げたところだ。《黒いボブ・ディラン》の異名も取った男だが、タイトル曲は本当にディラン・チックな弾き語りのトーキング・ブルーズだったりする。声も出てるし、いい声だ。http://imnewhere.net/

とりあえず、続報をつかんだらまた書きます。うれしくて、《GSH通信》も始めてしまいそうだ。

(もしかしてまだの人がいたら、この機会にこのブログ右上から遅れずに《Johannesburg》便にもご搭乗ください)

9.20.2009

マニュ・チャオ通信(#13)

■“通信”最新号は、マニュ・チャオを知らない、あるいはよく知らない人にこそ伝えたい情報。


まず新作ライヴ・アルバム『Baionarena』、フランスでは出ましたが、日本では少なくともとあるオンライン・ショップには1度入荷し、初回入荷分は予約分ですべて売り切れた模様。そこでぼくの予約した分はきちんと確保されてるのだが、配送料無料の“一括発送”で一緒にオーダーした商品の中のたった1点が未入荷なせいで、入荷後1週間も経ちながら、少々間抜けなことにまだ『Baionarena』を聴けずにいる。まあ、楽しみは逃げないから、急ぐことはない。


その新作に気を取られていた裏で――これが今日の本題――実はチャオの2004年の企画盤『Sibérie m'était contéee』が、彼のオフィシャル・サイトからアルバム1枚、まるまる無料でダウンロードできるようになっている!


この『シベリー・メテ・コンテ』は、絵本(写真上:チャオのポエムとヴォズニアックのイラストによる)と、全曲フランス語詞による録りおろしシャンソン23曲が入ったCD(その上の写真)がセットになったもの。それが“完全版”と、絵本を抜粋した“キオスク版”との2ヴァージョンでリリースされたが、どちらも限定版で、本国ではとうに売り切れ絶版。CDだけのバラ売りはしなかったので、当然CDも入手不可能になっていたが、リリースから5年経った今、この反グローバリゼイション闘士、貧者の味方マニュ・チャオは、音の方だけ全部タダにして、その楽しい歌たちを哀しい経済システムのくびきから解放したのだ。

04年のオリジナル・エディションでは23曲収録だったものが今回20曲になっているのと、数曲がリミックス、あるいはリエディットされている(曲によっては2009エディションの方がタイムが延びている)ものの、全体の聴後感に大きな違いはない。全体としては約10分ほど短くなったが、それでも全58分超。ファイルはMP3。

マニュ・チャオを聴いたことのない人は、この好機にDLして聴いてみたらいかがでしょう? この作品は他のラジオ・ベンバ・サウンド・システムによる作品(通常の路線)とは作風が少々違うので、こっちが特別なのですが(ラテン度もレゲエ度もロック度も低く、バンド・サウンドというよりは遥かに宅録風)、それでも、いや、だからこそ彼の詩人、ミュージシャンとしてのセンスがストレートに分かります。


『Sibérie m'était contéee』の参考文献:

RADIOCHANGO JP の nahoko さんによる、キオスク版の絵本のオフィシャル対訳の素晴らしい労作がここで読めます。基本的に、絵本の中身は楽曲の歌詞をモティーフにしているので、絵本を見たことのない人も、このアルバムの歌詞の意味が知りたかった人も必見。

★Wikipedia の英文サイト(詳しい)。

★『ミュージック・マガジン』誌(2005年04月号)の輸入盤レヴュー欄にぼくが原稿を書いていますが、その中の一段落。
《音はラ・マノ・ネグラ以来のミクスチャー感覚とジョルジュ・ブラッサンスの風合いが合体した、いつにも増して飾らない雰囲気。今作は、彼の好む場末の(=日本のメディアが忌避する)パリをテーマにしているからだが、稀代のヴァガボンらしく、そのリズムや音色にときおり南米やアフリカのザラついた砂埃感が混じる。素晴らしきマニュの世界。》


で、肝心のダウンロードはここの、


このグラフィックをクリック。・・・欲しい人は、同ページから”歌詞カード”も1枚ずつ、手動で落とせます。Merci Manu Gracias !

9.17.2009

で、その歌は立ち上がるのかい?

47NEWS (2009/09/17 12:26 【共同通信】)

http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009091701000295.html


■マリー・トラヴァースがいなくなった。好きな歌手がまた1人、いなくなった。オレの年代でもP.P.M.が好きな人は少ないと思うけれど、彼らの存在感、行った仕事の素晴らしさは、聴く者の生まれた年代、世代とは何の関係もないことだ。


日本人なら、横田めぐみさんの救出と拉致問題の解決を祈って真ん中の“P.”=ポール・ストゥーキーが「Song for Megumi」作り、歌ったことは記憶に新しいだろう。しかしそれとて、ピーター、ポール&マリーの現役時代の音楽、メッセージを知らない人にとっては、あのガイジン、誰? ってなものだったのかもしれない。


で、この悲しいニュースも、このオバサン、誰? ってなことになるんだろうな。


彼女とP.P.M.の映画が作られて、マリーの死を悼んで《2週間限定》で劇場公開されるなら、オレは初日に観に行くだろう。劇場が開く前から入口に並んでもいい。


『A Song Will Rise』(1965)


              *


そんなことにはなりそうにないから、せめて1曲聴いて彼女の死を悼みたい人には、たとえばこれなんかどうでしょう。

http://www.youtube.com/watch?v=qspQGHz4v1o


『パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフ』

■パティー・スミスのドキュメンタリー映画を観た。“美しく”、実に考えさせられる作品だった。


ファッション・フォトグラファーのスティーヴン・セブリングが11年間の長きに渡ってスミスを撮り続けた映像を編集したものだが、作品は時間の流れに沿ったものではない。一応、彼女の身に起きたこれまでの大きな出来事は順を追って言及されてはいるが、それは単なる確認、あるいはスミスのことをよく知らない観客にこの1人のアーティストの半生に関する基礎的な知識を与える程度のものでしかない。


この作品の主眼は、彼女のこれまでを振り返ることではなく、彼女自身をさらけ出すことにある。痩せぎすで髪の毛はぼさぼさ、パンクでやかましい音楽を作り歌ってきた女性も還暦を過ぎた。そのスピリットは今も、饐えも欠けも朽ちもしていない。その内面に流れるものは、堅固なだけに、静謐でむしろ慎ましい。・・・このドキュメンタリーは、文芸映像作品として明らかにクラシックな話法でそれを綴っていると理解した。


ネガティヴな形容詞を並べるなら、この映画は、つまりこの映画の中のパティー・スミスは、ナイーヴ過ぎで、自然過ぎで、あからさまに過ぎる。


無防備な咆哮の中に、はからずも心の奥底の震えまで滲み出てしまっているような彼女の歌だけで、もう充分なのではないか、という気にもさせられた。こんなに裸を晒さなくとも、レコードの声だけで充分に生々しく、ヒリヒリしているのに、と。


それに、自室で笑顔を見せ、過去を語り、いまだにディランを崇め、つたないギターの弾き語りを聴かせてしまうなんて、“パンク・ロッカー”としてあるまじき行為である!


ファンは、こういうスミスの中の親しみやすい側面、ときに優しいおばちゃん像を欲しているのかどうか、映画を観ながらずっと考えていた。“自然な”、とか、“ありのままの”、とか、“等身大の”、といった安い形容をありがたがる世の中の風潮には、その大抵の文脈において虫酸が走る。つまり、そういうオレがパンクなんだろう。それも、少々頭の堅い。


そんな少々頭の堅いパンクスがこの作品のナイーヴな美しさに少々困惑するとき、そんなことを十二分に予想した上でこういう作りにしたスミスを含む制作者側の意図を考えることが、この映画を観ることと完全に同義になる。


ボブ・ディランが自分の映像作品の中で何かを語るときにそれがロックであること、キース・リチャーズが映像の中で何かを語るときに、それがまたディランとは少々質の異なるロックであること、それらならばストレイトに感じ取ることができると自分では思っているのだが、この作品でパティー・スミスが何かを語る場面の幾つかから受ける彼女の無垢さは、オレの親しんできたロックのピュアさとは次元が違っていて、受け手(彼女のレコードのファン)としてどう気持ちの中で対処していいのか分からなかった。そんなにイノセントだと困る、みたいな気分だったのだ。


オレはロックを信用しているから、オリコン・チャートの常連の“ロック”を信用しない。そんな自分にとって、パティー・スミスは数多くない信用できるロックだという確信があるから、この作品の何箇所かで感じた困惑も、きっとそのロックの一部であるだろうことは容易に想像できる。オレには、彼女からまだ学ぶべきロックがあるということだろう。それが思い違いでないとしたら、これは実に素晴らしい作品だ。その可能性が高い。だからもう一回観に行こう。


この映画に対して日本の著名人が大勢、絶賛の声を寄せているのも読んだ。オレはそういう人たちよりも鈍感なのか、彼らほどパティー・スミスのことを実はよく知らなかったのか、もしくはその両方だと思う。



http://www.pattismith-movie.com/


9.14.2009

ジャズ・ミュージシャンの3つの願い

『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』を宣伝するために始めたこのブログですが、随分たくさんの方々に、この本に興味を持っていただけている実感があります。ありがとうございます。方々でいろいろな人から、「で、ヴィアンの本、いつ出るの?」と訊かれるのですが、まだ正式な発売日をお伝えできる段階に到っていません。何故そんなに仕事が遅いのか? と訊かれたときには、遅くて悪いのか? と何度か逆ギレしています。

・・・本当のことを言うと、シンコー・ミュージックから出る『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』と平行して、Pヴァイン・ブックスから出る、もう1冊別の本の作業をしていました。当初は、『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』を先に終えてから次の本の作業にかかる予定でしたが、両方のいろいろな事情から、最近は後者の作業に主に時間を割いてきた結果、そちらの本にも目鼻がついてきて、公に発表すべきタイミングになったので、ここでお知らせします。


           

そちらもジャズの本の翻訳ですが、これまたちょっと特別な本です。

ビー・バップ~ハード・バップ期のジャズのファンにはかなり知られた女性に、パノニカ・ドゥ・コーニグズウォーター男爵夫人(Pannonica "Nica" de Koenigswarter/カタカナでは“ケーニグスウォーター”と書かれてきたけれど、“コーニグズウォーター”が近いと思います)という人がいます。この、“ニカ”の愛称で親しまれた女性は、かの財閥ロスチャイルド家のイギリスの家系にキャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルドとして生まれ、フランスの男爵に嫁ぎましたが、若い頃からとにかくジャズが大好きな女性でした。
50年代にはニュー・ヨークに居を構え(フランス人男爵とは離婚)、当時の代表的なジャズ・ミュージシャンたちの友人として、そしてパトロンとして、ジャズ・シーンをバックアップしました。wikipedia に、そういった彼女の経歴が簡潔にまとめられています。

健康を損なうも、入院することを頑なに拒否したチャーリー・パーカーは、結局心休まる場所としてニカのホテルのスイートで息を引き取ったし、セロニアス・モンクは、人生の最後の9年間をニカのニュー・ジャージーの自宅で送りましたが、この有名な2つのエピソードだけで、ニカとジャズとの距離感、アーティストにとって彼女がどういう存在だったのかを容易に想像できると思います。また、モンクのかの大名曲「Pannonica」を筆頭に、ソニー・クラーク「Nica」と「My Dream of Nica」、ケニー・ドーハム「Tonica」、ケニー・ドリュー「Blues for Nica」、ホレス・シルヴァー「Nica's Dream」、ジジ・グライス「Nica's Tempo」などなど、多くのミュージシャンが彼女に自作の曲を捧げていることからも、偉大なミュージシャンたちと彼女との関係性が裏づけられています。

そのニカの家(最初はニュー・ヨークのホテルのスイート、のちにNJの一軒家)は、次々に多くのミュージシャンがやって来てくつろいだり、セッションしたりする一大社交場だったのですが、1961年から彼女は、自分の家に集まってくるミュージシャンたちに同じ質問をして、その答えを記録し始めます。その質問は、「もしもあなたの望みが3つ、即座に叶えられるとしたら、あなたは何を望む?」というものでした。
同時に、パノニカはリラックスした表情のアーティストたちの写真(完全なるプライヴェート写真)を多数、愛用のポラロイド・カメラで撮影しました。

彼女はそれを1冊の本にまとめる計画を持っていました。アーティストからの回答は300人分に及び、見応えのある写真(総て未発表)も多数集まったところで出版社に掛け合うのですが、その計画は頓挫し、ニカはそのまま88年に他界します。

没後18年ののち、フランス人の孫娘ナディーヌがようやく祖母の偉業を編集するに到り、それが2006年にフランスのビュシェ・シャステル出版より『Les musiciens de jazz et leurs trois vœux(ジャズ・ミュージシャンと彼らの3つの願い)』として出版されました。この本はすぐに評判を呼び、ドイツとアメリカでドイツ語版と英語版が既に出ています。





上の写真は、出て間もなく個人的に買って読んだフランスのオリジナル版と、昨年出たアメリカ(英語)版『Three Wishes : an Intimate Look at Jazz Greats』。
興味深いナディーヌによる序文は、そもそもフランス語で書かれたものでアメリカ版の方はその英訳なのですが、これがオリジナル・テクストとは随分異なったいまひとつの内容。しかしアメリカ版には著名なジャズ評論家ゲーリー・ギディンズの面白い寄稿文が追加されている。それに、ミュージシャン300人の回答はそのほとんどが、そもそも英語で為されたものなので、仏語版よりも英語版の方が当然“本物”・・・。
という状況をかんがみて、オリジナルの仏語版と、あとから出た英語版のいいところを両方取り合わせて、この名著『“3つの願い”』の日本語版を作ろうと思い立ち、その翻訳作業をやっていた、というわけです。

アーティストの名回答、珍回答が続出する、そして貴重な写真満載のかなり面白い本ですので、こちらもご期待いただけるとうれしいです。Pヴァイン・ブックスより、初冬発売。なお、上の2ヴァージョンの表紙はどちらもニカによるセロニアス・モンクをフィーチャーした写真を使っていますが、日本版もまたモンクの別の写真を使ったオリジナルの表紙になる予定。どんな表紙になるかもお楽しみに。


で、『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』は、その前に出せる、と、思います。

9.08.2009

Capitalism : A Love Story

■イタリアのヴェネツィア映画祭で6日、マイケル・ムーアの新作が初公開された。タイトルは『Capitalism : A Love Story』!




(一瞬ゴダールかと思った)


《“資本主義は害悪であり、あなたはその害悪を規制できない”、と、この2時間の映画は結論づける。“それを排除し、総ての人にとって好ましいもので置き換えなければならず、その重要なものがデモクラシー(社会的平等)なのだ”と》。


これはEPC通信の記事からの抜粋だが、同じ記事では、ムーアの以下の記者会見発言も取り上げている。


《民主主義は見るスポーツじゃない。参加する試合(event)だ。もしも我々がそれに参加しなければ、それは民主主義でなくなってしまう。だから(新自由主義に対する反省に基づく)オバマ(の政策)が成功するか失敗するかは、彼が何をするかによるというよりも、むしろ彼をサポートするために我々が何をするかによるんだ》。


昨日フランスのTV局《TV5MONDE》のニュースを観ていたら、この映画のヴェネツィアでのワールド・プレミアの報道に続いて、記者会見場の外でのムーアとファンとのやり取りも放送されていた。


それは、ムーアにサインをねだったファンの1人がサインのお礼にとムーアに現金を渡し、「これはベルルスコーニのカネだったんだよ(実業家、メディア王であるベルルスコーニの企業のどこかからもらった賃金という意味か)」と言い、それを受け取ったムーアがカメラに向かって、「贈り物ありがとう、ミスター・ベルルスコーニ。これ、あんたをぶっ潰すために使わせてもらうよ」と言っているシーンだったのだが、見た限りでは、日本のテレヴィはこの報道をしていないようだ。


http://www.michaelmoore.com/words/message/


予告編:

http://www.youtube.com/watch?v=IhydyxRjujU


9.07.2009

tokyoなんとか 09月号


■現物を手にできる人は配布店で。難しい人は、毎月のように以下のリンクからPDF書類でDLを!
今月の《TOKYOなんとか集会》は25日(金)19時〜 @Café★Lavandería 、《なんとかフェス》の記録映像上映会!

9.05.2009

マニュ・チャオ通信(#12)


Mano Negra clandestina マノ・ネグラは不法組織扱い

Peruano clandestino ペルー人は不法者扱い

Africano clandestino アフリカ人は不法者扱い

Marijuana ilegal 大麻吸った程度で犯罪者扱いだ



■Manu Chao『Baionarena』の発売は、結局フランスでも9月にずれ込んだようだ。


量販店 fnac のサイトでも、ストリート・デイトは9/14に変更された。

日本では @TOWER.JP が 9/8、HMV が 9/11、amazon.co.jp が 9/28と、それぞれ思い思いに予定日を表示している。


《Manu Chao》や《Baionarena》を検索ワードにしてこのブログに辿り着く人が非常に多いので、最新情報を更新しておきました。・・・バルセロナやマドリッド在住の(きっと)日本人のみんなも、祖国での“マヌ”の人気を気にしてか、ここにも頻繁に訪ねてくれているようだ。オラ・アミーゴス・コモ・エスタス?


ちなみに、チャオのサイトのヴィデオ・コーナー《TeveLina》では、『Baionarena』の収録DVD映像からの初カット「Clandestino」が観られるようになっていて、これが既にシビれる。

http://www.manuchao.net/tvlina/index.php#194


スペイン語を勉強したいオレのような者には便利な加湿器。もうこの漢字が最初に出てくる季節か・・・。

http://www.youtube.com/watch?v=em9Tx4M3ydo&NR=1


『Baionarena』のヴァージョンでは、この通りには歌っていないけれども。

9.03.2009

夏の終わり

■夏の終わりといえば・・・キャロルの「夏の終り」である。ぎらぎらした太陽に焚きつけられ、永遠に続くかのように思われた祝祭的な高揚感は、次第に色濃くなっていく秋の気配の中で少しずつその荒々しさを失っていく。人気のなくなった波打ち際で、遂には力なく夢から覚めてみると、足もとに喪失感がポロンと1個転がっているのに気づく。“ひと夏の恋”とは無縁の生活を送ろうと、ひと夏の終わりは、ひとつの恋の終わりである。好むと好まざるとに関わらず、ロマンティックで感傷的な、他のどの時期にも存在しない種類の空気が2~3週間をそこはかとなく支配する。で、それが今の季節感のはずだ。


が、今年はそれがないのが、やはりどこかもの足りない。夏らしい夏もなかったし、涼しいのはいいんだけど、ぬるい“夏もどき”からこのだらだらと寒くなっていくメリハリに乏しい感じがスッキリしない。長野騒乱《なんとかフェス》で、新型のサマー・オブ・ラヴを堪能したことが唯一にして決定的な救いだったな。


9月に入ると、なんと、あと2ヶ月ちょっとで《今年のベスト・アルバム》を選考しなくてはならない時期になるという事実が頭をよぎる。毎年『ミュージック・マガジン』でレゲエの年間ベスト盤ランキングと、ジャンルに関係なく個人的に評価する作品ベスト10を選んでいるが、その特集が掲載されるのが12月末発売の翌年1月号だから、選出の最終期限は11月の末になるわけだ。で、実は、音楽作品のリリース状況は、この夏の終わりからが“熱い”。その年のベスト作品候補が、例年9月~11月の間に大量にリリースされるのだ。


それは何故か? 巨大音楽市場を持つ欧米諸国の新年度が9月開始だからである。特にアメリカは会計年度も9月に始まることが大きい。夏休みを終えた企業が本腰を入れて稼ぎ出す季節だ。また、《ベスト・アルバム 2009》的なメディアの企画に対して作品のインパクトを持つにも、作品は秋にリリースする方が有利である。さらにはクリスマスの習慣を大事にする人たちにとっては、レコードやCDはこれまで長らく贈るプレゼントの候補として実に手軽で有効なものだったから、各レコード会社はそのクリスマス商戦に向けて“売り物”を揃えてぶつけてくる。だからグラミー賞とかいう(どう見ても健康的には思えない“政治的”)催しも、年が明けて落ち着いた2月頭なんだろう。

ってことで、今年もここからジャンルに関係なく、新作の音楽をガンガンに聴く“楽しみ”があって、それはそれでオレにとっての職業的な季節感を形成してはいる。


とはいえ、この病んだ気候がますます助長する、日本のこの9月のフレッシュ感のなさには、やっぱり少々気が滅入る。制度的にいって、何週間かのヴァカンスでゆっくり心身を休めたサラリーマンの、精気を取り戻した表情が街中に見受けられるわけでもないし、新学期を迎えた子供は元気いっぱいなはずなのに、インフルエンザ予防のマスクをつけて登校している姿が痛々しい。のりピーも民主党も、テレヴィのやかましさが辟易を通り越して寒々しいだけだ。あったかいお茶でも飲みながら、静かにこつこつ仕事する9月にしよう。遅れてる仕事があるわけだし。


と思っていたら、つい先日届いたフランス国鉄の(正確にはその関連旅行代理店の)ニュース・レターには笑わされつつも、ちょっと刺激された。


フランスって国では、労働法によって給与所得労働者は全員5週間の年次有給休暇を取ることが定められている。義務として休ま(せ)なくてはならない。なのでサラリーマンは、夏には普通最低でも3週間はまとめて休んで9月の頭に新年度を迎え、会社へと戻って来るわけだが、この女性はオフィスに戻った途端に仕事にウンザリし始めている。


で、早くも《新年度にノン!》という気分になっている。


で、ニュース・レター・メイルの写真は自動的に2枚が交互に表示されるようになっているが、2枚目はこれ。


《・・・終わらない夏に、ウイ!》


そして、〈外の空気に当たりたくはありませんか? あなたの夏を引き延ばして、9月の週末に旅に出ましょう〉っていうお誘いなのだ。


少なくとも3週間は休んだ国民に国鉄が言う言葉かよ、とも思うが、こういう宣伝コピーで効果があるとマーケティングされている国民が、つまりそういう国民性なんである。


日本にはそんな法律もなければ、そんな国民性もないが、こういうのを見ると、「オレもまだもう少しなんか楽しいこと、しよう」という気になる。その気分が大切だ。

たとえ、自由になるカネがなく、引き延ばす夏自体がなかったにせよ、だ。